1
2
3
4
5
6
7
8
9
10
11
12
13
14
15
16
17
18
19
20
21
22
23
24
25
26
27
28
29
30
31
32
33
33
34
35
36
35
36
文献資料-3
フジヰ画廊カタログ
(Tokyo Art Expo 1991)より転載
文献資料-4
アート'91
(1991年秋号)より転載
物だ」といい切るのには相当な覚悟が必要だし、この彫刻科のしたたかさを感じさせる。
籔内佐斗司は1980年、ギャラリー山口の「「籔内佐斗司展・犬モ歩ケバ」のプレビューで「精神と肉体なんぞと、古典的命題を、今さら持ち出すつもりはございませんが、生きものの形を造らんとて、アメリカヒノキを、接ぎ、切断し、組み込む作業を続けますうち、生き物の霊は、どこへやら、切断面やジョイント部から、みごとに成佛してしまい、私の手に残るのは、いつも抜け殻のみ。ところが彼らの呆けた表情を見ておりますと、あの小賢しい霊どもから解放された、安堵感がしみ出してまいります。こんな彼らにとりつかれ女の抜け殻、子供の抜け殻に続きまして、今回は犬の抜け殻でございます。犬も歩けば、さてさて何にぶつかりますやら・・」(「美術手帖」1980年10月号)と書いている。
 このことばからも伺えるように、さまざまな方向を志向しながら、この彫刻家の底流を貫いているのは、芸術における個性尊重の近代主義に対する強い不信感である。大阪・阿倍野の生まれ堺に育った籔内は「今いてる仕事場は東上野で同じようなもんですよ。浅草はあるし、動物園もあるし、天王寺と浅草がいっしょやとしたらね、本当にそんなとこです。昭和のはじめの雰囲気が残っているんですよね。」(前掲対談)「徳川以来の士農工商の工の部分の"居職"(「もはや死語になりましたが私の好きな言葉です。-自宅にいて仕事に従事する職業、またその人-三木注)の職人達の裔が、まるで時間が止まったように、今もなお、淡々と仕事に励んでいます」(「芸術新潮」1987年9月号)という下町で仕事を続けるこの彫刻家は、今どき珍しい"生活派"といえるだろう。だからこそ、歴史、宗教、神話などにも題材をとりながら、自由な解釈とすぐれた表現力で生活周辺に結びつける、不思議な魅力を生んでいるに違いない。
 籔内はまた、「魂よりも魂が宿っていたものの殻としての形態に興味がある」といい-形に固執すればする程空気との接点である皮膚一枚のところが面白くなってくるんです。今まで形而下のものとして軽んじられていた触覚的なもの、さわって面白いもの、佛教用語でいう"色"ですね。「美の神は細部に宿りたまう」といいますが、そんな意識に通じるところでコツコツと仕事をしています。-(「月刊美術1989年4月号)
 「生活派」は必然的に部分に固執する「触覚型」でもある。「芸術思潮みたいなねぇ、ものの考え方が先行して形ができてきたんじゃなんくて、自分が見たものか、触ったものをそのままに形にしたい」(前掲対談)と考えている。部分に固執し、部分をつなげることに強い関心をもつこの彫刻家は、自分の技術や表現力に並み並みならぬ自信をもっているとぼくは想像する。そうした表現力とともに籔内佐斗司を特色づけているのは、ものを見つめる醒めた眼であると思う。彼の作品のもつユーモアについてはよく指摘されるが、そのユーモアの複雑な性格と独特な面白さは「醒めた眼」に根ざしていると考える。
 「現代の人たちが身の回りに置いて触れ、愛着を持ってもらえるもの、生活の中で機能するようなものを作っていきたい」(「月刊美術」1989年7月号)という籔内佐斗司が、これからどのような作風を展開するか、大いに興味深い。
美術の故郷
籔内佐斗司のすだまの彫刻
米倉 守
 おそらく故郷などというものは、本当はどこにもないふるさとに対する憧れにちがいない。私は京都にも奈良にも住んだことがあるが、京都は日本のなかの日本であるのに、奈良はいまもってことごとく異国である、異風である。そして異風であるからこそ、そこに故郷を感じるのだ。
 籔内さんの作品に美術の故郷を感じるとすれば、この感覚に近いのである。
 「仏像をいう彫刻が立場が変わると全然別の存在になるということも学びました。研究室で修理を引き受けた仏像が、大学の事務系の人からすれば学外の大切な預かり物で早く無事に返して欲しいと心配する存在であるし、美術史の先生からすれば学術研究の対象であり、文化庁や自治体の関係機関には監督すべき文化財となります。お寺の住職にすれば、宗教法人の大切な財産であり浄財を集める貴重な道具ですし、信者の人には、信仰の対象そのものなんです。芸術品だなんて思っているのは彫刻家ぐらいのものなんです。それに気づいたとき、自分の作品を含めて現代の彫刻、美術って一体なんだろうと思いましたね。立場によって同じ物体が全く違う意味を持つということが理解できたのは、今、すごく役にたっています」(アート・トップ、120号)
 籔内さんはインタビューに答えてこんなことをいっているが、制作の途中で作品をまっぷたつに割って内刳りをしてふたたび接着することで自らの魂をその空間へほおりこんでいるのだ。
 日本語にはエスプリ(esprit)に相当するいい言葉がない。精神、勘、機転、才気、妖精といってもいずれもずれるが、宇佐美英治さんの言葉をかりると、すだまというのがある。
 籔内さんの彫刻は美味しさと、高さ広さを志向して軽やかである。ややもすると日本人はエスプリに欠け、高貴なものさえ低次元に引きずりおろして同仁視する習性が身につきすぎている、すべてをごっちゃまぜにしてしまうのだ。要するに"芸術"の創造も鑑賞も、それぞれの人の志向に帰着するのが、エスプリ、すだまの入った籔内作品もそこをはずすと見ぬけない。
 籔内さんは美味しそうにヒノキを寄せ、そのヒノキがこのようにしてほしい、作ってほしいという声なき声を手のひらでうけとめ、ヒノキ自身の注文をきいてやっているのであろう。ちょっと勝手をすぎた言い方をすれば、仕事師籔内が、ヒノキから何かをつくりだすのではなく、ヒノキの"こうしてほしい。ああしてほしい"という木理に従って、自己完成の手伝いをしているのかもしれない。籔内さんはつくる自由など案外もっておらず、もしかすると終日、あの魚市場のような工房で木理を読んでいるのか、とも思う。
 こういう人を仕事師、芸術家というのだろう。
 歓喜の声をあげるヒノキはしあわせだろうとつくづく思う。
籔内さんは美味しいヒノキを寄せ、
そのヒノキがこのようにしてほしい、
作ってほしいという声なき声を
手のひらでうけとめ、ヒノキ自身の
注文をきいてやっているのだろう。
 どうしてもたずねてみたいと思う工房というのがある。籔内佐斗司さんのアトリエがそれであった。
私にはこの彫刻家の工房がどうなっているのか想像がつかなかったのである。なんとなく仏師か面打師の仕事場に近いのだろうか、と昔京都でたずねた人たちの仕事場を考えてはいた。
 残暑の厳しい日、経堂の彫刻家をたずねて理由もなく私は魚市場のようだと思った。
 美しい桧材が魚や切り身に見えたのは私のイメージの貧困だが、どういう訳か美味しそうに思えたのである。
 籔内作品にとってヒノキという素材は決定的だが、その木理は魚の筋骨によく似た理法をあらわして工房のそこここにあった。生きのいい魚は、あるものはスライスされ、あるものは冷凍用に寄せられ、という具合であった。
 私は手触りのよい鰹節のようなカンナくずにさわりながら包丁師籔内佐斗司のことを考えた。
 「ぼくはじっさい悪魔のように/きれいなものなら岩でもなにでもたべるのだ」と宮沢賢治もいっているが、きっと彫刻家にとって桧の切り身は感じとして美味しいものにちがいないと・・・。
 実際、籔内さんは彫刻家というより、彫刻師といったほうがぴったりの人だ。この国の美術を支えてきたのもそういう人たちで思いつくままに私はいろいろの人を頭に思い浮かべてみた。絵付の光琳、扇面師宗達、装本の光悦、刀の孫六、染の友禅、能面の孫次郎、庭師遠州・・・芸術などというものと仕事師の区別はなかった。そして屏風、ふすまは絵画でありながら家具である、というような高水準の時代を思わせる人である。
 美味しい桧材で創られた美味しい籔内彫刻はいわゆる寄せ木造りで、漆を何層にも塗り重ね、顔料や金、銀箔などで風化を施して仕上げている。耳ざわりのよい京都弁を思わせるひとまわり古風なその作品は、いずれもヒノキに憑かれたもののくすぐったい笑いが、耳まで裂けた笑いがある。
 私はこの人の作品の近くに立つと、寓意画をみるようになにかもぞもぞとつぶやくか、呪文のようなものを唱える以外に手のないものをまず感じるのだ。籔内さんの彫刻には、彫りものの故郷のひとつがあるのだろう。
 しかし、そこでは否応なしに奇人や鬼に立ち向かわねばならない故郷である。
籔内佐斗司の彫刻
美術評論家 三木多聞
 近年、彫刻に対する一般の関心が年ごとに高まりつつある。そうした状況とも関連していると思われるが
、このところ彫刻界のニューウェーブともいうべき有能な新進彫刻家たちの台頭が際立っている。籔内佐斗司もその一人である。1953年大阪市生まれのこの彫刻家が作品を発表しはじめたのは、東京芸術大学大学院在籍中の1979年、駒井画廊での個展からのことであったと思う。以来10年あまりの間の活躍はめざましく、大いに注目されているが、その作風の特色は簡単にいえないほど、いくつかの方向を志向している。からくり人形を思わせるような女性の人体像、運動する男性の人体を空中に放り出したような生地の出品、動物の顔、古典的な技術をとり入れた緻密な手法による顔、あるいはそのシリーズ、動物の群像など、実にさまざまである。1988年第11回神戸須磨離宮公園現代彫刻展で神戸市緑化芸術賞・兵庫県立近代美術館賞を受賞したコールテン鋼の群像、「犬モ歩ケバ・・・'88
」を除けば、ほとんどが木、それもヒノキを素材にしている。
東京芸術大学の彫刻科では、塑像や石像、鉄材による彫刻も手がけたが、木彫一本に絞ったのは大学院に進んでからで、研究生を一年やってから、大学院の別の課程保存修復技術へ行った。1980年大学院を修了後
、保存修復技術の講座に参加して助手を5年間つとめ
、文化財の修復を通して、寄せ木造りや漆、彩色の古典技術を学んだ。
「加工そのものが好きだったんですね。私の最近作は、木材を彫るという彫刻の作業と、漆を塗るという工芸的部分、そして顔料で彩色するという絵画的な面があり、受験期に古典絵画の勉強をしたことも無駄ではなかった。今は彩色が面白くてしょうがない
」(「月刊美術」1989年7月号)といい、
「たとえ私の名前は残らなくても、作品自体は何十年、何百年と残したい気持ちがある。下地に漆を塗るのはそうした意味も含まれている。無名の佛師たちの作った佛像の修理修復を通して、自分の生きている今を表現したものを生き続けさせることの大切さを教わ
ってきました。大事なのは、個性ではなく、後世に伝える何か」(前掲)といい切る。
 1987年現代彫刻センターでの個展のカタログのための、酒井忠康氏との対談の中で、「-彫刻っていうのは結局、置物だと思います。つまるところ置物だと-えらいどなられてきましたけど。だけど、今もそれは変わりません。原則は置物だと。どういう置物であるかは、芸術性の程度出来ます。だから、作家の力だけだと思うんです。基本的には。」とも述べている。
 ぼくは彫刻の両端は、モニュメントと呪術などにもつながる愛玩彫刻にあると思っている。その間で一般の人々にもっと接触する機会が多かったのがながい間置物だったと思う。しかし現代社
会の中で「彫刻は置